なれはき

なれはてのはきだめ

つくらずにはいられない

 わたしは Twitter(@srwnks)Instagram(@srwnks)にて、「いちも詩」というものを発表しています。

 はじめていちも詩を発表した日のことを、改めて確認してみました。

 このツイートですべてを言ってしまっているのですが、ほんとうにただそれだけのことで、それを「一文字の詩」=「いちも詩」と名づけました。

 これより後につくったいちも詩は、べつに夢の中に出てきたわけではなく、自分でいろいろ考えてつくりだしています。たまには夢に出てきてくれてもいいのですが、出てきてくれません。

 もともと、このいちも詩のために TwitterInstagram をはじめたわけでもないのですが、わたしはすっかりいちも詩をつくることに夢中になりました。

 そして、この形を好きだと言ってくださる方もいらっしゃって、ほんとうにうれしいことです。ありがとうございます。

 なんのために創作をするのか。どうして創作をするのか。

 たまに、そんなことを考えます。わたしは「誰かのため」に、創作をしていません。「お金のため」でもありません(そもそも、お金にしたかったとしても、ならない)。じゃあ「自分のため」かというと、そうだけど、そうじゃない。

 いろいろ考えると、結局は「つくりたいから、つくる」というところに行きあたります。「つくらずにはいられない」とも、いえます。思いつくと、じっとしていられないんです。

 これは他の創作も同じです。もちろん、思うように形にならなくて苦しいときもあります。むしろ、苦しい時間のほうが長い。それでもやっぱり、つくらずにはいられない。

 わたしが創作をはじめたのは、もうずっと昔、高校一年生のときでした。高校生になったわたしは、文芸部に入部しました。もともと小説を読むのが好きで、自分もこういうものを書けたら素敵だろうなあ、と、ふんわり思っていたのでしょう。

 その文芸部では、部員はみんな掌編小説・詩・短歌・俳句・エッセイを一通りつくらされていました。もちろん強制力はないので、「私は詩は書かない」とか、「私は俳句しか詠まない」とか、そういう部員もいました。でも、とりあえずみんな一通りやってみる。なのでわたしも、一通りやってみました。

 その結果、掌編小説を書くのも、詩を書くのも、短歌を詠むのも、俳句を詠むのも、楽しかった(ただ、エッセイは苦手でしたし、今も苦手です)。

 わたしの作品は、あまり受けがよくありませんでした。特に顧問に。とても強く印象に残っているのは、入部して初めて書いた掌編小説にまつわるエピソードです。

 何度も顧問に書き直すように言われて、書き直しているうちに、もうまったく別物になったんですよ。それはわたしが書きたかったものじゃなかった。

「賞をとったのはわたしじゃない。顧問だ」

 そんなふうに思いました。今も思っています。

 わたしが所属していた文芸部は、高校の文芸部としては、わりと全国的に有名でした。いわゆる「強い」というやつです。

 いま考えてみれば、文芸に「強い」もなにもあるかよ、という感じなのですが、部員たちがどんどんコンクールで賞をとるような文芸部は「強い」のでした。そしてそれが顧問の、そして部員たちの、誇りだったのです。

 その後、わたしは顧問になにを言われても、書きたいものを書きたいように書くようになりました。顧問もやがて諦めました。他にもっと「強い」部員がいましたから、べつによかったのかもしれません。

 わたしはコンクールで賞をとれなくなりましたが、そんなことよりも、書きたいものを書けることがうれしかった。強がりじゃないのか、といわれたら、ひょっとするとそうなのかもしれません。自分でもよくわからない。

 ただ、部員の中には「君の作品、好きだよ」と言ってくれる人もいました。とにかく、そのことがうれしかった。

 当時、わたしは不登校でしたが、放課後に学校につくように家を出て、授業にはひとつも出ないで文芸部にだけ顔を出す、という日が多かったです。そんなわたしを、部員たちはやさしく受けいれてくれました。

 高校は中退したけれど、最後まで文芸部にいました。

 そして大検(今でいう高卒認定)をとって大学は数学科へと進みましたが、文芸創作はほぼずっと続けていました。

 もちろん、つくることが好きです。つくったものに誰かが触れてくれることは、うれしいし、好きだといわれたらもう、舞いあがります。

 でも、根っこにあるのは「つくりたい」いや、「つくらずにはいられない」という気持ちなのです。

 つくりたいものをつくれること、それ自体が素晴らしいのだと思います。もちろん、思うようにつくれずに、苦しい時間のほうが長いのだけれど、ときどき「これだ、これがつくりたかったんだ」というものを、つくれる。そのことがもう、素晴らしい。

 そのうえ、誰かがそのつくったものに触れてくれて、さらには好きだといってくれることもあって、それはそれはもう、素晴らしいです。

 わたしはすぐ、このことを忘れてしまいます。もっとたくさんの人に触れてほしい、もっとたくさんの人に好いてほしい。そんな気持ちでいっぱいになって、自分がいやになってしまう。

 べつに「もっとたくさんの人に触れてほしい」とか、「もっとたくさんの人に好いてほしい」とか思うことは、悪いことではないと思うんです。

 でもどうにもわたしは、こういった気持ちが大きくなると、自己嫌悪に陥ってしまいます。理想と現実のあいだが広すぎて、立っていられなくなる。

「もっとたくさん」って、何人なんでしょう。ときどき自問してみますが、具体的な数字は出てきません。「理想と現実のあいだが広すぎて」と書きましたが、そもそも「理想」の姿がはっきりしていないのです。

 ただ、はっきりしていることがひとつだけあって、それは「わたしは、つくりたい」ということです。

 いまわたしの作品に触れてくださっているかただって、触れなくなる日がくるかもしれません。いまわたしの作品を好いてくださっているかただって、ひょっとしたらわたしの作品を嫌いになったり、あるいは興味をなくしてしまったり、そういう日がきてもおかしくありません。

 それはとても寂しいことだけど、それでもわたしはつくると思います。

 もちろん、わたしの作品を楽しみにしてくださっているかたには、ぜひ新しい作品をお届けしたい。そして、そのことはとても励みにもなっています。でもそれは、いちばんの目的では、ないんです。

 わたしは、つくりたい。つくらずにはいられない。ただそれだけのことなんです。ただそれだけのことなんだと気付くたびに、少しだけ、少しだけですが、ラクになれます。