「生きたくても生きられなかった人がいるんだから、おまえも死ね」
物騒なタイトルですが、わたしはこんなこと、思っていないですよ。念のため。
先日、Twitter でこんなことを呟きました。
あんまり、人と比べるということはしたくないが、さまざまな理由によって「やりたくても、できない」という人はたくさんいるわけで。そして、それを理由に「じゃあわたしも、やりたいけど我慢します」というのは、おかしいと思っている。
— 藤野ゆくえ (@srwnks) October 25, 2021
「生きたくても生きられなかった人がいるんだから、おまえも死ね」なんていう人は、まあ、いないですよね。むしろ言いたいことは、その逆じゃないですか。
— 藤野ゆくえ (@srwnks) October 25, 2021
それとおなじで、やりたいことがあって、それができるのなら、やったらいいと思うんです。
「生きたくても生きられなかった人がいるんだから、おまえも死ね」
— 藤野ゆくえ (@srwnks) October 25, 2021
ところでわたしは「生きたくても生きられなかった人がいるんだから」という文句は、あまり好きではありません。「生きたくても生きられなかった人がいる」のは、事実でしょう。けれど、そのことと「わたしは死にたい」というのは、別の話なのです。
わたしの命をあげられるものならあげたい。いや、きっと「お前の命なんぞいらん」と言われてしまうのでしょうけどね。ですが、命そのものを臓器移植のように誰かに移すことは、不可能です。
わたしの命はわたしのものでしかなく、わたしの代わりにわたしを生きたり死んだりできる人は、どこにもいないのです。
かなしいですね。
「生きたくても生きられなかった人」は、わたしが一所懸命に生きたところで、救われることはありません。わたしが生きようが死のうが「生きたくても生きられなかった人」にとっては、おそらくどうでもよくて、誰がなにをどう頑張っても、死んでしまった命を取り戻す術はありません。
わたしはわたしを生きて死ぬしかなく、あなたはあなたを生きて死ぬしかないのです。
もうひとつ、この文句について思うのは「自分がどう思うのかを言わずに済まそうとしているところが気にくわない」ということです。
「死にたい」と思っている人に対して、自分がどう思っているのか、それはなにひとつ言わない。「生きたくても生きられない人がいるんですよ」というのは、たしかに事実でしょう。けれど、それはあなたの感情や思いでは、ありません。
勇気を出して「わたしは死にたいと思っている」ということを打ち明ける、それは、とてつもなく勇気のいることです。それなのに相手からは「思い」をひとつも返してもらえない。こんなにかなしいことがあるでしょうか。
「生きてればいいことあるよ」とか「みんなしんどくても頑張ってるんだから」とか、そういうのもみんな一緒です。そこに「あなたの思い」など、ひとつもない。一般論や正論で心が動かされたこと、あなたにはあるんですか? と、問いたい。
そもそも絶対に「生きてればいいことある」かどうかは、わかりません。「みんなしんどくても頑張ってる」とは言いますが、そのみんなってどのみんななのでしょう。しんどくないし、頑張っていない、という人も、それなりにいると思うのですけれどね。
こういうことを書いていると「じゃあ『死にたい』と打ち明けられたら、どうすればいいのさ」と、思われてしまいそうですね。
「あなたの気持ち」を、打ち明けてあげてほしいのです。
その「死にたい」と言った人が、もしほんとうに死んでしまったら、あなたはどんな気持ちになるか。少しでいいから、想像してみてください。
(ただし、その結果「勝手に死ね」としか思えない場合は、できればなにも言わないであげてほしいですが……)
場合によっては、医療機関へ繋げることも必要です。「死にたい」を甘くみてはいけません。「死にたいと言うやつほど死なない」という謎の言説を、たまに見かけますが、わたしの知る限りでは、それは大間違いです。
たしかになにも言わずに黙って去っていく人もいましたし、そちらのほうが「インパクト」があるかもしれません。それでも「死にたい」と口にしていた人もまた、自殺してしまいました。
その人の「死にたさ」は、その人にしかわかりません。こればっかりはどうしようもありません。
ただ寂しくて構ってほしくて「死にたい」と言う人だって、もちろんいるでしょう。そして、それに振り回されて疲れてしまったという人だって、いるでしょう。そういう方については、気の毒だな、と思いますよ。
ですが「死にたい」と口にするすべての人が「ただ構ってほしいだけの人」なのでは、ありません。
わたしは相手を困らせてしまうのが怖くて「死にたい」とは、なるべく口にしないようにしているつもりです。でも、必ずしもそれがよいとも、思えません。
もしわたしが生きることに耐えかねて、突発的に自殺してしまったら「死にたいと打ち明けてくれていたら、なにかできることがあったかもしれないのに……」と、誰かが後悔してしまう可能性もあります。
(まあ、今のところわたしは「死ぬまでは生き抜いてやるからな」という気持ちであり、自殺は考えていません)
「死にたい」への模範解答など、存在しません。あなたの思いを伝えるしか、ありません。
よくよく考えてみてほしいのです。「死にたい」と言ってきたその人が、もしもほんとうに死んだら、あなたはどんな気持ちになるのか。
一般論や正論は、あなたの目の前の人を助けてはくれません。相手を追い詰めたくて一般論や正論をぶつけているならまだしも、ほんとうはどうにか相手の死への想いをとめたい、と思っているのであれば、一般論も正論も捨ててほしい。
そして、死にたいと思ってしまうあなたへ。
その「死にたい」は、ただの誤作動です。あなたには、どこかに不具合があります。もっと具体的に言えば、あなたの脳に不具合があって、エラーを吐いているのです。
だから、それこそ一般論も正論も捨てて、まだ病院へ行っていないのなら、病院へ行きましょう。病院へ行く時間すらないですか。その「病院へ行く時間すらない」という状態が、もはやヤバいんです。
とはいえ、ヤバいと言って解決することでもありませんね。あなたにはあなたの事情があります。とにかく誰かに話を聴いてもらってください。話を聴いてくれそうな相手がいないのであれば、紙に思いの丈を書き殴ってください。あまり死にたい気持ちは軽くならないかもしれないけれど、なにもしないよりはずっとマシです。
誰かに話を聴いてもらっているあいだ、思いの丈を紙に書き殴っているあいだ、少なくともそのあいだは、自殺できませんから。
そしてなるべくはやく、病院に電話して予約を入れてください。心療内科でも精神科でも、どちらでもいいです。そして予約を入れたら、その予約を入れた日まででいいから、なんとか生きてください。
脳に不具合があるのだから、修理、つまり治療が、必要なのです。それは必ずしも投薬治療とは限りません。
最後に。あなたの死にたさは、あなたのものです。あなたの死にたさは、あなたにしかわかりません。死にたくても、いいのです。死にたくてもいいのだけれど、死んでほしくはない。
「お前は俺のことなんてなにも知らないだろう」と、言われるかもしれません。そのとおりです。でもあなたは、どんな経路かはわからないけれど、このブログにたどりついて、そしてこの記事を、ここまで読んでくださった。
言ってしまえば、わたしにとって大切な読者の一人です。そんな大切な読者さんに、自殺してほしくはないのです。
綺麗事だと思うのなら、それでも構いません。馬鹿馬鹿しいと、鼻で笑ってくれて、構いません。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。